第18回 終戦前後と天皇の録音盤(2)

平成28年3月18日
南山伏町町会会長 妹尾一男

一夜にして下町26万戸を焼き尽くし、8万人以上の市民の命を奪った20年3月10日の東京大空襲は凄まじかった。だが今まで多く語られ、文献も多く残されているので、ここでは触れないことにする。

強制疎開については、あまり知る人が少ないようなので記しておきたい。3月10日ころ警官が突然やってきて、
「軍命令で急遽道路を拡幅することになったので、神楽坂六丁目の北東側の表通りの家は、今月末までに立退いてほしい」という無茶な申し渡し。

3月10日の空襲で想定を超えた被害に慌てた軍部が、道路を拡幅して延焼防止を計ろうという泥縄対策だが、通りの向かい側は銀行支店が3店あったので、こちら側に無造作に線引きしたわけだ。

終戦になって牛込区役所の建築課の担当者が「すみません、軍命令なので私が急いで線を引きました」と言っていたが、その線引きが現在の都市計画道路の線に残っているようだ。

絶対権力の軍命令とあれば、どうもこうもない、急ぎ引越し先を探し二人の姉と共に隣町の横寺町に引越した。家具など殆ど置き去り、辛うじて親の位牌と身のまわりの衣類や食器、僅かな食料品を手持ちで運んだに過ぎない。

生まれ育った家は数日後に兵隊が数人きて芯になる柱に鋸を入れ、それに繋いだであろう太いロープを道路に長く延ばし、通行人に協力を呼びかけて、数十人で引張ると簡単に倒れる。こうやって次々と壊していった。

強制的に短期間に無理に立退かされたにも拘らず、一銭の補償もなかった。

だが落着くひまもなく4月13日、山の手中心の大空襲で焼き出され、身寄りを頼り隣町の箪笥町に身を寄せた。

この空襲で幼い頃から近くに住み、姉と同い年で親しかった23歳の従姉妹が筑土八幡神社の表石段の中ほどにある手洗い場の辺りで亡くなった。

叔父は老婆をリヤカーに乗せバラバラに逃げたそうだが、純子があそこでと聞き、見に行ったが衣類も焦げていず、焼死ではなく煙にまかれたらしい。だが不思議とそれほどショックを受けなかった。あゝ純ちゃん逃げおくれたんだ運が悪かったのだねェという想いだけで、別に涙も出なかった。

下町の大空襲で親しかった級友の死をクチコミで聞き、なにしろ焼死体も少なからず見てきていたので、どうせ自分も助からない明日をも知れぬイノチだとの覚悟というより、アキラメの境地にあって神経が麻痺していたのだろう。

だが日常生活は変に取り乱すこともなく意外と平静に単々と過していた。食べ物も乏しく夜も空襲警報で安眠できぬ惨めな暗い生活だったが、それでも結構、楽しみはあった。

歌舞伎座は尾上菊五郎が「義経千本桜」いがみの権太を演じ男女蔵(左団次)を相手に「棒しばり」を踊った。

幕間に六代目が舞台袖に登場し、満員の観客にご挨拶を。「市村の兄貴(羽左衛門)は信州に疎開しましたが、あたしァ東京から離れません。この間の空襲で玄関前に焼夷弾が落ちましたが、みんなで消しとめました。皆さんご一緒にこの東京を守っていこうじゃござんせんか」