第17回 終戦前後と天皇の録音盤(1)
南山伏町町会会長 妹尾一男
終戦直後の9月に中野の下宿で、皇居で終戦の詔勅を録音した春名静人さんと同室になり、暫く生活を共にしたころ聞いた話など紹介するつもりで筆を執ったが、新聞で東京大空襲などの伝承者を政府が育てるという記事を読み、戦時下の生活、経験を書き残しておいてもと、前段の方が長くなりすぎ、次号にまで続くことになりました。
昭和19年7月にサイパン島が陥落すると、秋にはB29が東京上空に姿を現した。澄みきった青空に1万メートルほどの高度で悠々と偵察飛行をしている。高射砲もとどかず、ようやく戦闘機が1機飛び立ち急上昇でB29に迫っても、全く大きさが違い蚊が蜻蛉に近づいていくようで、まるで勝負にならぬ感じ。天気さえ良ければ毎日のように1機、制空権を誇示するように飛んでくる。
「もう、この戦争は勝てないな」と感じたが、空襲への恐怖感はそれほどなかった。それは早稲田中学が昭和17年4月ドゥリットル率いるノースアメリカンの空襲で、132発の焼夷弾が校内に投下され、昼休みの校庭で4年の児島さんが直撃を受け亡くなったが、火災が起こらなかったことにもよる。実際1年生の木造校舎には土曜日なので掃除当番だけが残っていたが、彼らが濡れ筵(むしろ)と砂と水だけで焼夷弾を消している。
帰宅して2階の物干し場で、丸の中に星のマークをつけ超低空を飛ぶのが敵機とは全く気付かず、珍しげに見ていた。連戦連勝の時代とはいえ呑気なものだった。
やがて急速に戦局が悪化し、18年には大学生の学徒動員、19年11月になると早稲田中学3年生は勤労動員(全ての中学、女学校も同様)となり、中央気象台と、半分は亀戸のドラム缶工場に通うことになった。
気象台では短期講習の後、航空天気図班に配属され、日本各地、満州、支那の占領地の測候所から電信で送られてくる気象電報を、航空天気図に記入する「地名と、天気、風向、風速、雲や気圧」などが、3桁と2桁の算用数字で打たれた電報を、1人が解読して読み上げ、1人が天気図に記入する。
4時間おきだっただろうか、技師が来て、その天気図を観て天気予報を書く。それを一字ずつ3桁の数字に変え、さらに軍秘資の乱数表から採った数列を下の段に記入し、足し算して暗号電報を作成し、隣の建物の電信室の兵隊の許へ持っていく。
仕事の性質上24時間勤務で、中学生といえども日勤、夜勤、明けの三交代をこなした。
航空天気図は気象台でも重要部門なので、他は木造でも、鉄筋コンクリートの2階建で、空襲警報が出ると窓に5寸角の木材を並べ鉄枠で固定し仕事した。
夜勤は12時までで、明け番と交替すると電信室の2階で寝る。1カ月たたぬ中に、暗号の解読も含めて仕事のスピード、正確さは、大人の職員と変わらぬまでになった。
そうこうする中、20年3月10日の本所、深川から日本橋、神田の下町大空襲となる。その夜は夜勤で気象台で迎えた。