第10回 「津田左右吉と激しい時代の嵐」

平成24年3月26日
元 南山伏町町会会長 妹尾一男

立派な仕事をしたと賞められたのに、時代の風がかわると、怪しからんと責められ、果ては罪人にされたが、再び風の流れがかわると、最高に賞め讃えられるという波瀾の人生だった。

  • 明治六年、岐阜県の下米田村に竹腰家藩士だった津田藤馬の長男として生まれた。
  • 明治二十三年、十七歳で東京専門学校(現早稲田大学)の編入試験に合格。
  • 明治三十七年、早稲田大学清国留学生部で日本語を教える。
  • 大正七年、四十五歳で早稲田大学講師。
  • 大正八年、「古事記及日本書紀の研究」を刊行
  • 大正九年、早稲田大学教授。
  • 大正十一年、「上代支那人の宗教思想」により文学博士。

ところが険しい国際情勢下に天皇神格化により国論統一をはかろうとする軍国主義勢力が台頭し、純粋な学問的研究も言論弾圧されるようになった。

津田の古事記、日本書紀の天皇に関する記述は後世の官人の手が加わっているとの論証は天皇の尊厳を冒涜すると問題に。

  • 大正十五年一月、早稲田大学教授を辞任。
  • 同年二月、「古事記及日本書紀の研究」他三著の発禁。
  • 同年三月、出版法違反で起訴。
  • 昭和十六年、公判開始。
  • 昭和十七年五月、一審で有罪。
  • 昭和十九年、時効により免訴。

敗戦により状況は一変する。

  • 昭和二十一年、早大総長に選ばれたが固辞。名誉教授となる。
  • 昭和二十二年、日本学士院会員。
  • 昭和二十四年、文化勲章受章。

全三十五巻に及ぶ論文全集も刊行され、優れた業績に日が当たる。だが最も充実したであろう五十歳代からの二十年間の不遇は、個人的にも学界としても、なんとも残念なことだった。

  • 昭和三十六年、逝去八十八歳。