第3回 昭和初期の試験地獄

平成17年5月26日
南山伏町町会会長 妹尾 一男

「山手のある小学校では午前七、八時から、二食分の弁当を持って登校せしめて、授業開始前の一、二時間を勉強せしめ、放課後は実に午後十時ころまで準備教育をやる。

六年受持訓導は朝から夜まで学校にいる。居残り料あるいは夜勤料として、一夜五十銭くらいづつ支給されているという」(朝日新聞昭和八年三月三日)

まことに厳しい教育環境だがそれには当時の日本経済の実情も考えあわせねばならぬ。

資源乏しく、輸出品といえば「茶」と女工哀史に裏付けられた「繊維」、そして安くてすぐこわれるモノはメード・イン・ジャパンという造語でよばれた「雑貨」というのが御三家で、技術レベルの高い工業機械などは輸入に頼るのみ、アメリカからは屑鉄を大量に輸入していた。捨てるモノを安く買ってくる、およそ貧富の差がわかろう。

そのアメリカでさえ昭和八年は金融大恐慌に見舞われ、三月四日に大統領に就任したフランクリン・ルーズヴェルトの初仕事は、全米の銀行、信託会社などの三月六日までの休業を、さらに九日まで延長するという宣言だった。

当然、日本では株式、綿糸、人絹、生糸、砂糖などの取引所は全部休業することとなった。

そんな大変な時代であった。

南米や満州に移民を国策として送り出さねば、食べてゆかれなかったのだ。

もちろん冒頭の「試験地獄」を是として推めるわけではない。

ただ、この試練を経た人たちが、敗戦後の焼跡、なにもないところから、日本を復興し、かつてない豊かな国にしてくれた。

「福翁自伝」にみるごとく、緒方洪庵の学塾で当時の青年たちが刻苦勉励したように明治以来、死にものぐるいで努力してきた先人たちの業績のつみかさねが、今日の安全で安心な日本を築いてくれた。

最近の何事も安易に考えるような社会風潮に、大きな懸念を感じる。歴史教育というような大袈裟なことではなく、先人の努力の軌跡を、次の世代へ伝えねばならぬのではないか。

かつては海外旅行など庶民にとって夢で、戦前は御餞別を包んだりしたものだ。戦後も暫くは国益に相当する目的がなければ政府から海外渡航の許可が出ず、ようやく外貨事情に余裕ができ緩和されても、二十年ほど前にそれまで十万円以内だった持出し通貨が、ようやく二十万円までと規制が緩められたことなど知る人も少なくなってきた。