第7回 勤王の志士、近藤勇

平成22年4月28日
南山伏町町会会長 妹尾 一男

京都三條小橋の旅宿池田屋に元治元年六月五日祇園祭の宵宮に賑わう中、新撰組隊長近藤勇が僅か五人で斬りこみ、肥後の宮部鼎蔵をはじめ長州の吉田稔麿、土佐の北添佶麿など多くを殺傷し、彼らの不穏な計画を未然に防いだ。この池田屋事変で明治維新が一年遅れたという。

ともあれ池田屋事変で新撰組の威名は洛中洛外に響き渡ったが、京都守護職(会津藩主)松平容保は引揚げを追うように藩医二名を疵手当のため壬生の屯所へやった。後日「感状」を発し、手負の隊士に対しては金五十両ずつ、外に一統へ五百両隊長近藤には三善長道の刀一振と酒一樽を賜った。

朝廷からも隊士慰労の思召しをもって金百両下し置かれた。

ということは近藤勇と新撰組は明らかに勤王の志士として朝廷に遇されている。

このあたりの事情は子母沢寛の「新撰組始末記」に詳しい。

かねてから怪しいとにらんでいた池田屋に探索方の山崎蒸が三日前に宿泊する。それも先づ大阪の船宿にしばらく滞在し、この宿から常客だからよろしくとの紹介状を貰って池田屋を訪れる。祭りを控え客もいっぱいで池田屋も困ったが、長年取引のある船宿からの客なので、断りかねて下座敷の表の間に入れた。何とも好都合だった。薬商人とのふれこみなので翌日から二條の薬問屋から沢山薬種を仕入れ運びこみ信用を得る。

京都所司代の足軽渡辺某が乞食に化けて附近を徘徊し紙屑のように捨てた山崎の情報を届ける

一方、四條寺町の桝屋という古道具屋が怪しいと五日の早暁おそって主人古高俊太郎を捕らえ、壬生の屯所にで厳しい拷問の末判明したのは「近く烈風の夜を選び禁廷の風上や京の四方に火を放ち混乱に乗じ、主上を長州へ御動座し奉る」という密謀で、驚愕して京都守護職、所司代に通報するとともに、急遽在勤隊士三十名の多くを土方歳三に預け三條縄手の四国屋をその夜襲う手筈を決めたが、夕刻に山崎蒸から今夜池田屋で会合ありとの急報で、近藤自ら沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平を率い、池田屋に斬りこんだ。逃亡を防ぐため戸外に槍の名手谷三十朗と原田左之助を配した。二時間に及ぶ死闘も四国屋が空なので土方組が駆けつけ、会津、桑名の藩兵が大挙後詰として出動し死者七名生捕二十三名の戦果を挙げた。

京の街を焼き御所に乱入し、天皇の拉致を謀った不逞の輩を成敗した新撰組が、後世朝敵と呼ばれる。まさに勝てば官軍。現在、牛込柳町の近藤勇の邸跡には、それを示す新宿区の標柱が一本さみしく立っているに過ぎない。


昨夏、京都の池田屋跡地に、「はなの舞」など居酒屋チェーンを経営する「チムニー」(墨田区)が、居酒屋「池田屋」を新築開店した。

史実では二階建のはずだが、「蒲田行進曲」の影響か三階までの通し階段も設けてあるが、それほど見栄えはしない。

地下は客席になっているが、かつては多くの武器を隠した秘密の広い地下室があり、木屋町の方へ抜ける墜道を掘り続けていたとき発覚したとやら。

店員には背に誠と染め出し、裾に山形を白く抜いた新撰組風の浅黄色の羽被を着せている。

ランチタイムでの「近藤勇」「土方歳三」「沖田総司」などのメニューは、人名を食するのに抵抗があるが、競争の厳しい外食産業の余裕のなさか。