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南山伏町町会 妹尾一男氏のコラム

第20回 終戦前後と天皇の録音盤(4)

平成29年4月1日
元 南山伏町町会会長 妹尾一男

3月に強制疎開、慌てて引越した横寺町の家は4月に、5月には身を寄せた箪笥町の叔父の家も空襲で丸焼け。気象台の夜勤から帰ってきて途方に暮れた。

何で知ったか覚えてないが津久戸小学校へ行くと姉たちがいた。体育館に畳が敷かれ大勢収容されていた。警防団員の世話で朝夕、小さな握り飯が2個支給され、毛布も貸してくれた。だがこれも2晩だけで、立退き先を探して3日目の午前には出ていくことになっていた。

そこで姉の嫁ぎ先の縁故の浦安の親戚を訪ね事情を話すと、姉の亭主が応召で満州に征っているので、出征軍人の家族ということでもあり、心よく迎えいれてくれた。

ただ今と違って交通は全く不便で、県境いの今井橋まで20分以上歩き、市電を乗り継いで錦糸町まで1時間以上かかり、気象台への通勤には苦労した。

やがて終戦となり9月から学校も再開したが、とても通えぬので沼袋(中野区江古田)の学生下宿に入った。

初めは2階の6帖間に一人だったが、復員、復学や、疎開から帰る人たちの東京転入の波で間もなく日本放送協会の録音技師(当時は技手)の春名静人さんと同室することになった。春名さんは30歳近くで温和で気さくな人で、15歳の中学生にも親しく接してくれた。

ある時「妹尾君、僕は終戦の時の天皇陛下の詔勅の録音を宮中でとったんだ」と聞き「天皇陛下の前でとったんですか」「いや、隣の部屋へコードを引いて技師と二人でとった」とか、「1枚とりおえたら陛下が、もう1枚とろうとおっしゃったので、急いで準備してとった」など話してくれた。

戦時中は千島に行き「千島よいとこ1度はおいで、サーヨイヨイ、川で兵隊さんがヤレホニ鮭つかむ、マタハーリヌ、ツンダラカヌサマヨ」と歌いながら仕事した時の話をきかせてくれた。

また、「明日買い出しに行こう」と誘われ、西武線小平にリュックをしょって行ったが、駅から遠くない畑で薩摩芋を掘っているお百姓がいた。「これ売ってくれませんか」と春名さんがいうと「これでよければ」と直ぐに交渉成立。難しいと聞いていた買い出しが、いとも簡単に済んだので喜んで下宿に帰り早速調理したが煮ても焼いても固くて食べられぬ。後にこれは「冠水芋」といって長雨などで長く水に漬かった芋と知る。

泊りがけの出張前に「妹尾君もし下宿が火事になったら出来れば是非これだけは持ち出してくれないか」と、ちょうどレコードでも入るくらいの薄い正方形のベニヤ板の箱を示されて、「えゝ、いいですよ」と気軽に預かった覚えがある。

やがて春名さんの奥さんの弟の豊福理雄さんが上京して合流し、春名さんは疎開先から奥さんをよびよせ下宿から出ていった。豊福さんは3,4歳上だが気が合って3年前に亡くなるまで時々、会っていた。

豊福さんから聞いたのだが、春名さんがとった録音盤は1枚は宮中に置き、1枚は上司が持ち帰り放送の後に、敵米軍に渡すものかと処分してしまった。

ところが9月に入って進駐軍の若い兵隊が、「ヘイ、ユー」と春名さんの居た録音室にきて「これを1枚コピーしてくれ」と出したものを見ると、春名さんがとった終戦のあの録音盤、「OK」と明日を約し早速録音し、翌日2枚渡したが原盤は手許に残し、下宿に持ち帰った。

進駐軍の占領下、彼らはウィスキーを自由に買えたが、もし日本人が「オキュパイド・ジャパン」のシールの貼ってないジョニ赤でも持っていると忽ち、沖縄へ強制労働送りと噂された。シールの貼った空きビンを銀座のバーへ持ってゆくと、千円で買いとってくれるといわれた。

なにしろ恐しい占領下では隠しつづけ、いつ上司に提出したか知らぬが、マスコミの伝えていないこんな裏話もある。