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南山伏町町会 妹尾一男氏のコラム

第11回 尖閣は日本領土と中国政府の公文書

平成24年11月26日改
元 南山伏町町会会長 妹尾一男

今から92年前、時の中国政府長崎領事が、沖縄の尖閣諸島が日本領土なることを、次のように公文書で認めている。

この感謝状は大正8年(1919年)冬に、尖閣近海で遭難した中国の漁民を、尖閣諸島魚釣島の日本住民が助け、中国福建省に送りとどけたことに対する感謝状で、これを訳すると、
「中華民国8年(1919年)冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が嵐に遭って遭難し漂流して、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島内の和洋島(魚釣島の別称)に着いた
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村長 豊川善佐君は熱心に救護し故国に生還させてくれた
この書状の贈呈をもって感謝の気持ちを表す」そして
「中華民国駐長崎領事の署名、捺印」がある。

この感謝状は当時の石垣村長に贈られたものであるが、他にも魚釣島のカツオ節工場の経営者や救助に携った関係者など計7人に贈られている。

そもそも尖閣諸島は福岡県出身の古賀辰四郎氏が1884年ころから、アホウ鳥の羽毛採取や、カツオ漁業、カツオ節製造などの事業を行っており、政府は85年以降、現地調査を行い1895年に領土編入を決定したが、外国から異議はなかった。

1932年に日本政府は古賀氏に尖閣諸島の魚釣島・久場島・北小島・南小島を払い下げる。
最盛期には248人が居住し、日支事変の最中、1940年頃に撤退し無人島になった。

敗戦後の1946年、アメリカ軍の直接管理下におかれたが、1952年サンフランシスコ講和条約発効後も沖縄とともに尖閣諸島は引続き米国の施政下におかれた。
1972年、沖縄返還協定発効と同時に尖閣諸島の施政権も日本に返還される。魚釣島・久場島・北小島・南小島が古賀氏から民間人に譲渡される。
1978年8月、政治団体「日本青年社」が魚釣島に灯台を設置する。

ところが1969年、国連アジア極東経済委員会が周辺海域に石油埋蔵の可能性を指摘すると、71年に中国が領有権を主張しだした。
そして1992年2月、中国は尖閣諸島を中国領と規定した領海法を制定する。

これらの経緯から今年4月、石原慎太郎都知事がワシントンで、尖閣諸島の購入計画を発表したところ、政府が慌てて国有化を計画した。
今年8月15日、香港の反日団体のメンバーが魚釣島に上陸し、逮捕されたことで、中国本土の諸都市で反日デモが荒れ狂い、暴徒化して、日本品を扱うデパートなどを破壊、掠奪するという事態に陥った。
明らかに拡大した所得格差や党幹部、高級官僚の目に余る汚職、蓄財に対する人民の不満を、反日によって敵を外に求めて、そらそうとする孫子の兵法に習った政策で、そこまで為さねば政権を維持できなくなった中国は、いつ崩壊するのかという懸念は、ますます増してきた。

もともと尖閣諸島が日本領土であることは中国も認めており、1966年文化大革命の際、紅衛兵向けに刊行された地図は、尖閣諸島は中国の国境外に位置しており、琉球列島つまり日本に属していたことを示している。
玄葉外相は10月10日の記者会見で「尖閣諸島について中国が領有権の主張を始めたのは1970年代に入ってからで、1960年に中国で発行された地図には日本の領土であると書いてある」と述べているが、なるべく穏便にという政府の対応が逆効果を生んでいる。

「別冊正論」Extra.18.によると、中国国内の民間企業の幹部である女性が、2012年8月14日、中国版ツイッター「微博」で、日本の領有を示す1953年1月の中国共産党機関誌の人民日報の記事や、複数の公式地図などの根拠を挙げて「1949年から71年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を日本領土と認めていた」ことを明らかにした。

その証拠として挙げた資料によると、人民日報は1953年1月8日付の紙面に掲載した記事で「琉球群島(沖縄)は台湾の東北に点在し、尖閣諸島や先島諸島、沖縄諸島など7組の島嶼からなる」と表記していた。中国当局が監修した53年、58年、60年、67年に発行した地図の画像も示したが、その多くに「尖閣群島」「魚釣島」などと表記されている。日中境界線も明らかに日本領土であることを示している。