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南山伏町町会 妹尾一男氏のコラム

第4回 寛永通宝は昭和の時代まで使われていた(1636年〜1953年)

平成18年11月15日
新宿区町会連合会 理事 妹尾 一男

寛永といえば、徳川3代将軍家光の時代であるが、その寛永3年(1626年)に鋳造されて、実質的には初めての国内統一通貨として、江戸時代流通したのは周知のところだ。

しかし「寛永通宝」が明治維新の後も、大正、昭和でも生きながらえ、日本政府の法定通貨として流通していたことを知る人は少ない。

ついでに通貨の歴史を少したどってみたい。古代は物々交換から「物品貨幣」として石の矢じりや稲が使用された。

大化改新(645年)以後、唐の文化を輸入するようになり、やがて唐銭をまね「和同開珎」が元明和銅1年(708年)に皇朝銭として鋳造された。

しかし「和同開珎」を模した私鋳悪貨の流通が増大したため、その後「神功開宝」など、しばしば新皇朝銭が鋳造されたが、政府の財政事情の悪化から皇朝銭の質を悪化させたため、9世紀中頃には銭一文当りの米の購買量は、8世紀初めころに比べ約150分の1に下落した。

当然、農民の間に銭離れが起こり、10世紀末には皇朝銭の鋳造は中止された。

11世紀になると、宋や高麗との交易がさかんになり、12世紀に平清盛が政権をにぎると積極的に宋との通商を行った。

この頃から宋の銅銭が大量に輸入され、日本国内でも通過として流通するようになった。宋の「皇宋通宝」さらには明の「永楽通宝」などは後世まで広く流通した。しかし、国内で 鋳造された私鋳貨幣は質の悪いところから鐚銭(ビタセン)とよばれ嫌われた。

これらの海外渡来銭が禁止されるのは、寛文10年(1670年)で、寛永3年以後幕府が各地の銭座に命じて公鋳していた「寛永通宝」が、ようやく全国の需要をみたす量に達したからである。

1枚の重量は1匁(3.75グラム)、銭径は8分(2.4センチ)が標準であったが、後には軽量、縮型のものや、鉄銭も鋳造された。

明治維新の後、明治4年(1871年)に、新通貨相当の価格が定められ、

鉄銭は明治30年(1897年)、貨幣法の発布によって流通を禁止されたが、銅銭はその後も長く法貨として生命を保ち、昭和28年12月かぎりで、ようやく通用禁止となって流通界から姿を消すこととなった。