震災・戦火の荒廃から繁栄を築いたまち

大久保地区町会自治会連合会は11町会と9自治会で構成されている。自治会は敗戦後、戦災で家を失った人のために作られた公営住宅と公団住宅、戦後出来た社宅などもあり、戦前から地域の中で育まれた町会とは、歴史的経緯を異にしている。

もちろん会員のための町会、自治会であるとの基本姿勢に変わりはないが、町会では町の歴史の中の神社、仏閣それに伴う祭を通じて、人の心の和が作られている。一方、集合住宅の多い自治会は、建物の構造上、居住者の心を一つにすることが難しいが、それぞれの自治会も、特色のあるイベントを開催するなど、居住者の意志を尊重し反映することを心がけている。

町会には独自の歴史的な由来があり、例えば百人町の町名は徳川幕府直属の鉄炮百人組が住んでいたことから名づけられたものである。

現在も、皆中稲荷の2年に1度の本祭りには、鉄炮組百人隊保存会が出陣行列と火縄銃の演技を披露していることが有名である。

その他にも鬼王神社、全龍寺、永福寺、西向天神社等もあり地域の人々に親しまれている。

地区町会連合会の歴史は大久保の町の発展と共にあり、新宿駅の開通抜きには語れない。

明治18年2月1日、人家も疎ら、商家も少ない時代に新宿駅が開業、ついで22年4月11日に甲武線が開業、これらの交通の及ぼした影響は大きかった。特に、新大久保、大久保駅の開業は地域に大きな利益を持たらし、原料、商品などの円滑な輸送が町の繁栄にもつながっていった。

大正12年9月1日の関東大震災では幸いにも、損壊や火災の被害が少なかった。また、山の手は地盤が良いということで、中央線沿線に人々が続々と移住するようになり、新宿はこの顧客を掴んで、山の手の繁華街へとのしあがった。それまで、山の手銀座と言われていた神楽坂を一気に抜いて、歌舞伎町が歓楽街へと変貌をとげたのもこの頃である。

第二次世界大戦では空襲の大きな被害を受けたが、一面の焼野原から復興したのは、戦争中から物資の配給等に活躍した町会の力が大きい。

各町会、自治会が一体となって地域の防犯、防災、親睦のために努力したのが今日の大久保の発展をもたらしたといっても過言ではない。

「大久保のまちには活気がある」と云う言葉を多く聞くが、それは歴史と伝統を誇りながらも、他からの人々を受け入れる受け皿と風土も持ち合わせているからである。

外国人を含め多くの人々が集まれば、活気もあるが反面混乱も起こる。それを、大久保の魅力に置き換える努力が今後の課題と言えるかもしれない。

これからも、各町会、自治会への積極的な参加を呼びかけ、共に手を携えてよりよいまちづくりを行いたいと思っている。